昭和54年07月26日 朝の御理解



 御神訓 一つ 道教えの大綱
 「信心してみかげのなき時は、これぞ不思議なることぞ。」

 信心しておかげを頂かんと言う事は無いと言う事ですね。もうそれこそもし信心しておかげが受けられないならば、それは不思議な事だと。金光教の信心は私はそうだと思うです。だんだん奇跡的なというかそのう霊験ですね、不思議なおかげを頂けるようになりますといろんな理屈をつけてね、そのうおかげいわゆるご利益が伴う宗教は、おかしいとか程度が低いとか、ある宗教なんかはそういう宗教は邪教だと、言った風に決めつける人達がありますけれどもね。
 信心して霊験のない時はこれぞ不思議なる事ぞという信心が、一貫してあのう頂き抜かれれる宗教。何時の時代だからおかげが頂けた、何時の時代になったら新しい時代になったら霊験が伴わなくなったというのは、もうそれこそ不思議なんだ却っておかしいと私は思うです。如何にその宗教が生きた力、生きた働きが地に落ちたてしまったんだと。伽藍堂のような会堂がある。教えもいうならば何巻の教典、教義と言ったものがある。あっても命を失くしたようなものである。
 それこそ触れれば温かみを感じるような、つついたら血が飛び出るような、そういう信心を教祖様は仰っておられると思うのです。信心して霊験のなき時はこれぞ不思議なる事ぞと。その前に「信心して霊験のあるを不思議とはいうまじきものぞ」とあります。だから私共はこれはま事実、私自身が毎日毎日ですね、まぁ本当に不思議な働きがあるもんだなぁと、お取次さして頂いて思うですね。だから結局信心してという、その信ずる心というその心に問題がある。
 真心(しんじ)ん自分の真心(まごころ)に問題がある。果して自分の心がね信心、神心に繋がっていっておるか否かと言う事をね、確かめてみなければならない。勿論信心過程といういわゆる信心、真心、神心と言う様にです、それは信ずる心も何もなくても、神様お願いしますと言う所から、神様の働きは始まる事なんですけれども、何時までもそれが続くと言う」事ではない。信心も育ってゆく五年の信心すりゃ五年がた、十年の信心すりゃ十年がたの成長というものがあっておらねば。
 だから自分は信心するようになって二十年にもなる、三十年にもなる。そしておかげが受けられんというならば、三十年もたった信心なのに、信心がひとつも育っていないからだと言う風に、悟らねばならんという事です。おかげというてもそのおかげの範囲というのはもう大変広い訳です。何というても自分の心が助かってゆく、その助かりが本当なものであるかどうかと言う事は、それに伴うところのおかげでまぁ判定していいと思うです。有り難い有り難いと言いながら、おかげが伴うてこないならば。
 そのあなたがおかしいというのはね、おかげと言って居るのはちょっとおかしいぞと、やっぱ思うてみなきゃいけません。真に有り難しと思う心と仰るが、その真に有り難いと思う心が、一年々育って行くと言う事が信心なのですから、十年経てば十年、二十年経てば二十年の信心の経歴に応じて、いうならばおかげも段々広がって行くと言う事なんです。信心して霊験のあるを不思議というまじきものぞ、信心して霊験のなき時は、これぞ不思議なる事ぞと。
 私は金光教の信心は、この二つの例えば教えがですね、はっきりそうだと合点がいく信心でなければ、金光様の御信心じゃないです。金光様の御信心ちゃこの頃はだんだんね、同んなじ様な奇跡的なおかげと言った様なものは、非常に程度が低いと言った様な見方をする、いうなら偉い先生方がおるんです。いうなら偉いというても、頭の先生というてもよいでしょう。頭脳の先生というてもいいでしょう。
 神様は理屈の上にはおかげは下さらんです。どんなに素晴らしい理論的な事が、体得出来て分かっておると言ったって、おかげになるもんじゃないですね。ですからこういう御教えが生き生きと、そのお互いの信心の中に息ずいておらねばならない。昨日二十五日の研修会と同時に婦人会がございましたが、終わりましてから、もう一年位前からだいたいはもう正義先生のところに、申込みがあっとったち言うんです。追分に追分ですかねあそこは中川という建材店がございます。
 そう熱心という訳ではないですけれども、まぁ合楽に帰依をしてあのうお参りしてみえます。この頃から御先祖の霊のお祭りもございました。あちらに移られて七十年ですかね、時には謝恩のお祭りもされました。それもぜひ親先生にいっぺん来て頂いて店の様子も見て頂きたい。そしてお食事の一つも差し上げたいからというて、けれども親先生はそんな事では来やしなさらんですよというて、正義先生が言うておったそうですけれども、まぁそれが成就したというわけでしょう。
 とにかく先日からお届けがございましたから、なら二十五日に皆顔が揃いますから、なら先生のまぁいうなら取り巻きといいますかね。総代さん方が昨日私達を含めて五名でしたか参りました。研修が済んでから、そして昨日は竹中組がみえていろいろあのう建設の事で打合せがあっておりましたから、遅くなりましたけれどもあちらへまいりました。そりゃ本当もう日本でも有数な建材店だそうですね。しかも女社長です。
 もういろいろ見学させて頂きましたが、中川さんが言うておられます事の中に、これは中川建材店、私が社長になってもう一貫しておる事と言う事ですね、それは「お客さんが喜んで下さる」と言う事に重点をおいてあります。私共の使用人の方従業員の方達のもう若い一人々にこれを私は申します。例えば我欲の儲けばしなさんな。例えば或る時セメントあの中川、あそこは生コンのあれもやっとられますから、セメントが大変値上がりした事があった。急に。
 そういう時でも安くして仕入れている分だけは今までの値段でいいですと言うて、皆にお得意さんにふれを回したという訳です。という生き方なんです。どうでしょうか。「お商売させて頂く者、どうか今日も大繁昌のおかげ頂きますようにはいいですけれども、大繁昌頂きたいばっかりにですね、それこそ駆け引きをしたり嘘を言うたりして、他が十銭売るのを十一銭で売り十二銭で売る事が、おかげのように思っておるような商売人がありはせんでしょうか。
 そいう例えば商売人かです、お道の信心をもって信心さして頂く者が、只利益の追求という事であったら、おかげは頂いても長続きせんと思うです。そして次に言っておられます。「考えてみると様々なところも何十年通りましたけれども、私はどういう事がありましてもひとっつも、その苦労という事を感じませんでした。そして何時の間にかここまでおかげ頂いとりました、」もう八十になられますから、まだ若々しいですお話とっても若い者と話とるようです。感度もなかなかいいです。
 これは私共がこりゃ絶対のものというのはねどうせいうんら一辺は、お国替えおかげ頂かなければならないから、お国替えを頂くまでのいうならば生き方というものを、いよいよ確かなものにしておかねばならない。最近はその事を思うて、いよいよ身の回りの整理整頓までさせて頂いとるという話もしとられました。私一代にこれだけのおかげば頂かんならんと言った様なものじゃなくて、とにかく中川建材店は、お客さんが喜んで下さればよいという生き方で、今日ここまで伸びました。
 お店と工場合わせますと三千坪あるそうです。だからここの今度買わせて頂いた家と横の、これを合わせて工場の三千坪です。そこ一杯にそのお店と工場と倉庫とが立ち並んでいます。もう倉庫なんかも見せて頂きましたが、もうそれこそ「ほぉう」と私はたまがりました。沢山のその商品が積み上げてある。それはなる程どうぞ儲けさせて下さい、そして御用させて頂きますから、と言う様な言い方をする人が沢山あります。けれども儲けさせて下さいと言う事は、やはりその中に不純な物があるんじゃないでしょうか。
 一万円儲かった、それが十万円儲かるようになったならおかげです。けれどもその中から五万円お供えするちいうなら気安いこつじゃないですか。誰でもできる。だからそういうならば、願いの元に商売がしていかれるというとですね、いうなら長続きするおかげになる。中川さんじゃないけれど、何時の間にかここまでおかげを頂いて来ておるとこう言われる。皆さんどう言う事になると思いますか。
 私はその事のあちらの応接間でいろいろ聞かせて頂いて、お礼申させて頂いとりましたら頂く事が、二面の琴がかなでられているところ、それに尺八を誰かが一人その琴の音に合わせて吹いておるという情景を頂いた あぁ成程と、琴線に触れると言う事を言うでしょうが、例えばお話を聞いとって感じる。その感じるところから私と皆さんの交流が始まる。私と神様との交流があっておる限り、そのいうならば交流が次のおかげに繋がって行くんですね。
 心のいうならば琴線に触れた事、信心をさせて頂くならば、あちらは先代が柏原の教会で、熱心にお母さんが信心なさった方だそうです。そして自分は一時信心を止めてしまっておって、合楽にこうしておかげを、私共頂くようになりましてから、お参りを始められた方なんですけれどもね中川さんは。その心の琴線に触れておる、触れたと言う事はです、お道の信心教祖金光大神様が、もうどんないろんな問題があっても、そんな事は問題じゃないと言う風に仰っておられます。
 もう「此方は人が助る事さえできれば」これが教祖金光大神の信心の中に一貫しておるものであった。人が助る事さえ出来ればであった、人が笑おうが悪口を言おうが、問題は人が助かる事さえ出来ればよいという。私はあのうここの商売をなさる方に言うんですけれども、今言うとにかくどう言う様な信心、どう言う様な商売、どう言う様な風にお客さんに接したら、お客さんに喜ばれるかという事ばぁかり、寝ても覚めても考えておけばいいよと私は言うんです。
 さぁところがこの商売が一つ成就したら幾ら儲けるかと、算盤の方を先に取るからいかん。金光様の信心すりゃ算盤抜きにして損せろと言うのじゃないです。けれどもどういう商売さしてもろうたら、お客さんが喜んで頂くであろうかという事を、終始思い続けると考え続けると言う様な信心ですね。その商売人のなら商売人の根底の中に、それがずうっと続いておるならば、いつの間にかここまで繁昌のおかげを頂いておったという、おかげに繋がらない筈はないと思うです。
 中川さんの場合はそういう何時の間にか、おかげを頂いておったと言う所にですね、神様の心に響くもの、それが一貫しておられた。神様がそれに寄り添うように、いうならば伴奏を入れておって下さった。琴と尺八のいうならこれ合奏、何ともいえん音色がそこから頂けるようにね、私共の心の琴線に例えば毎朝お参りするお話を頂く、何か感ずる事があるに違いない。
 昨日、佐田先生の叔父さんにあたられます方が、近畿の方に、神戸ですかねにおられます。もう八十才からのお爺さんです。私が大阪にあのう講演に参りました時に、あちらの一門の方達が、皆んな頂かれて、お話を頂いて始めて合楽の先生のお話を頂いて、非常に感動した。もう一人の御親戚の方は、この頃から、大変おかげを受けて、お礼に見えましたが、あのお話の中から、心に触れるものがあった。もうその方の信心が、長年の信心だが一変した。
 昨日の、佐田先生宛に手紙が来ておりますのを、昨日研修の時読んでもらいましたけれども、合楽にお参りさせて頂いて、親先生のお話を頂いたのは一分間だった、と言う事はここで一言私が何か言ったんでしょう。それで私の信心が一変したと言っておられます。いうなら心の琴線に触れた。そして私の考え方が、もうそれこそあのう手の平を返すように、変わられたというお礼の手紙が、実に若々しい。とても八十の叔父さんが書かれたとは思われないような瑞々しい表現でね、お礼の手紙が来ております。
 だから感じたというても、それがね手の平を返すような、いうなら生活の上に現れて来るのが伴なわなければ駄目なんです。毎日感じただけじゃいかん。中には不感症という人があってね、どげな有り難い話を聞いても、感じないという人がある。やはり琴線に触れる心に触れる、それが感動となってくる。そこには神様がですそれに寄り添うように伴奏を入れて下さる。もう妙なる音色というその音色にのって、そのリズムにのってお互いの信心生活が始められる。
 あれだこれだと我情を言う事はいらん。我欲を言う事はいらん何時の間にかこれ程の繁昌を見る事になったという。地団太踏むようにしてどうぞこれをお願いします、どうぞお願いしますお願いしますと言うだけの信心じゃなくて、心のいうならば琴線に触れたもの、それが行の上に生活の上に現される。はぁほんに自分なもう本当に儲けさせて下さい儲けさせて下さい、商売人は儲ける事が商売人だ。
 そん替わりしっかり御用させて貰いますからと言った様な事で、神様はおいそれと動きなさる神様じゃないこの神様はね。心の言うならば琴線に触れたもの、それがいつの間にか育っていっておる。それがだけではない神様がそれに伴奏を入れて下さるような働きが起こって、いうならば生き方の上にリズムがある。だから中川さんの場合は何十年という、過去のいわゆる苦しかった時代の事も振り返って見て、本ん当に私共いうなら裸一貫同様から、今日ここまでのおかげを頂いとるのですからね。
 と言う事を言うておられましたが、それがいつの間にここまで育ったかわからない。過去の事の、もう苦労がなかったじゃないけれども、苦労を苦労と感じなかったと言う事は、一つのリズムに乗った生き方、と言う風に言うてもよかろうね リズムに乗っての言うならば生き方。また歌うでも伴奏がある。伴奏がその伴奏に乗って歌を歌う。そこに出らない声もでる、成程素晴らしいいうならば、音響効果というか、言う様なものが生まれてくるんですね。
 そういうおかげを頂いてです、私は今日の御理解を思うんですね。信心して霊験のあるを不思議とは言うまじきものぞ、信心して霊験のない時は、これぞ不思議なる事ぞと。やぁや言うてお願いしておかげを頂いた。もう次にはまたお願いしたばってんおかげ頂かんじゃった。頂いたり頂かんじゃったりと言う様なものではなくてです、それはその願うからおかげは下さってもです、それが繋がるようなね。
 言うならばもうこのリズムの切れる事のない、そのリズムに乗って生きるという信心生活がです、出来て来るところに望みのない、地団太踏んでお願いせんならんと、言った様な事もなくなって来るおかげ、はぁりゃもう一生懸命になってお願いしておかげ頂いた。おかげ頂いたらもうやれやれ安心して、信心が信心になったと言った様なものではなくてね、そういう信心という事は今申しますように、信心生活の中にです。
 もうその商売するならば信心の、いうなば教えなら教えというものが、一貫してずうっと続けられるという事。これを私の方の店の一つのこれは流儀ですと、いうものが神様の心に叶うもの。とにかくお客さんに、喜んで貰いさえすればよいという生き方が、神様の心に叶て、神様のいうならばリズムというものが。何時も続けられておる、と言う事になるのじゃないでしょうか。信心して霊験のあるを不思議とは言うまじきもの、信心して霊験のなき時は、これぞ不思議なる事。
 おかげを受けたり、受けなかったりと言う所に、お互い一つ不思議を感じて、これは一貫して神様に喜んで頂くという生き方というものを、いよいよ以て身に付けねばいけないと言う事を、覚悟しなければいけません。生き方その全体が神様の心に適う生き方になる時にです、それこそ信心しておかげを受けると言う事は当然の事。特別の事ではない。それがもし切れたような感じがするならば、それこそ不思議を感じて、自分の信心を検討しなければならない時だと思うですね。
   どうぞ。